・町を離れて野に山に・・・FUWV部 50年の歩み・
〜・青春を福井で学んだ深田久弥・〜

 ● FUWV部創立50周年(1956発足)を迎え、コースガイドブック「福井の山と半島」の巻頭言を執筆頂いて以来、深田久弥は
我々にとって「日本百名山」とは別に近い存在となった。 最近は深田久弥・山の文化館とも交流させてもらっています。
ここでは、1999(平成11年)6月23日付けの福井新聞記事を紹介しながら、福井との結びつきを再確認したい。

福井大学ワンダーフォーゲル部&OB会
{資料館}50年の歩み深田久弥・山の文化館沿革 福井の山と半島INDEXへ

 還暦を迎え 「山は私の人生に何をプラスしたか」 「どこにそんな魅力があるのか」 と自問した久弥は 「わからない」 としつつも、こう断言する。 ・・・・「自然の中で何を学んだか」{OB短信}

計量できるようなものに大したものはない」〔「山岳遍歴」〕

  「山のような人間にならねばならぬ。山のような文章が書けるように ならねばならぬ」と誓った深田久弥。

その言葉通り、山の文章を文学の域にまで高めたと評され、中でも「日 本百名山」は、今なお山岳愛好家の心をとらえてはなさない。久弥の出 身は石川県だが、福井中学時代の5年間の体験が、その後の登山や創作 活動の源流となった。奥越の独立峰荒島岳を 百名山の一つに選んだ。(敬称略)

   「僕という人間は、加賀と越前の合いの子である」 (「きたぐに」)

 深田久弥は1903(明治36)年3月、石川県大聖寺町(現加賀市大聖寺 中町)に、父弥一、母トメの長男として生まれた。実家は代々紙商を営み、印刷業も兼ねていた。  少年のころから地元の山に登り、少年雑誌の懸賞作文に応募し、入貢したこともあったという。
 久弥は一六年、福井県立福井中学(現藤島高校)に入学する。町に中学がなく、福井市に 母の実家があったのが理由だった。
 福井中学では雑誌部委員となり、校友会雑誌「明新」の発行に携わった。仲間と「若人」という 文集を出したりもした。弟の弥之介(90)は「兄は福井で活字を買って帰り、家で文集を 印刷、製本していた」と語る。
 三年上には高田博厚(彫刻家)、二年上に中野重治(作家)、一年上に吉田正俊(歌人)、 同級生に森山啓(作家)、増永霊鳳(宗教学者)、石田和外(最高裁長官)らがいた。・・・・福井中学の偉大な卒業生たち
 そうそうたる人材を輩出した福井中学について、久弥は、大島英肋校長はじめ、 「実に優秀な先生がそろい」 「立派な学校であった」と回想している。
 その当時の福井中学は、濠(ほり)と石垣に囲まれた福井城跡にあった。 その石垣の先端に 「突角」と呼んだ芝生の生えた高台かあり、上級生による生意気な下級生への鉄拳(けん)制 裁が行われる場所でもあった。

一方、晴れた日には、そこから真正面に「白山が美しく見えた」。
 久弥は、身びいきの独断としつつも「おそらく内地における独立の山で富士に次いで美しい のは白山ではないかとさえ思う」と評している。特に、故郷・大聖寺からの眺望の素晴らしさを 緩り返し語てた。
 その白山に初めて登ったのは、中学三年の時だった。勝山から谷峠を越え、石川県の牛首で 一泊、翌日は白山温泉泊まり。次の日室堂まで登った。久弥は「日本百名山」で、白山について、 こう記している。
 「それまで故郷の低山ばかり漁っていた私にとって、白山登山はまさに私の山岳開眼であった。」  「白山について語り出せばきりがない。それほど多くのものをこの山は私に与えてくれる」

福井中時代には、また歩く喜びも覚えた。一年生一学期の試験の終わった日、福井から大聖寺まで 約三十二キロを歩いて帰った。正午に福井を出て、大聖寺に入ったのは午後七時ごろだった。
 「家の者はおどろいたが、私にも何か一つのことをなしとげたという気持ちがあったのだろう。
歩くことへの自信が付いた。と同時に歩く楽しみをおぼえた」 (「福井の山と半島」)  これ以後、愛用した五万分の一の地図には、大聖寺、永平寺、三国、福井と、歩いた道を表す 無数の赤線が引かれることになった。


 福井中学を一九二一年に卒業した久弥は、金沢の第四高等学校を受験するが落第。   「どこか静かなところで勉強したい」と、永平寺に三ヵ月間こもった。
 翌年、第一高等学校に入学し、二五年には、中野重治ら北陸出身の東人生によって 編集された同人誌「裸像」に加わった。一高を卒業すると、東大哲学科に入学。「新新潮」を 舞台に意欲的に作品を発表する。
 久弥は、青森出身の北畠八穂との出会いを通し、三〇年、「オロッコの娘」を発表し文壇の 注目を集め、これを機に大学を中退し、作家生活に入った。さらに三二年の「あすなろう」で 地歩を固める。
 新進作家として頭角を現した久弥は、「文学界」に参加。 川端康成や林房雄、小林秀雄 らと、鎌倉文士として「恵まれた」二十歳代を過ごした。
 八穂と別れ、四七年に志げ子と結婚し、故郷・大聖寺に転居。
その後、金沢、東京へと移り住む。登山は続けていたが、このころには、小説の創作活動は ほぼ終わっていた。長男、森太郎(五六)は語る。
 「父は信念として、男女の恋愛とか、殺人事件とか、山に俗世間のことを持ち込みたくないから、 山をテーマとした小説は書かないと話していた。」

 五十歳を過ぎたころからヒマラヤ研究に精力を傾注。自宅の庭に建てた書庫「九山山房」に、 内外の膨大な文献を収集した。
 五八年には、五十五歳でジュガール・ヒマール、ランタン・ヒマール踏査を行い、自らヒマラヤ 大衆化に道を開いた。
 帰国後の五九年から、雑誌「山と高原」に「日本百名山」の連載を開始した。  百名山の選定に当たり、久弥は、山の品格、山の歴史、個性の三つの基準をおいた。 六四年に刊行されると、高い評価を得、翌年、読売文学賞評論・伝記の部を受賞した。 選考委員の一人、小林秀雄は同書を「山を対象にした批評文学である」とし、こう評した。

「著者は、人に人格があるように、山には山格があるといっている。 山格について一応自信ある批評的言辞をえるのに、著者は五十年の経験を要した。文章の 秀逸は、そこからきている。」

 その後も、ヒマラヤ研究の集大成として「ヒマラヤの高峰」を発刊。六十六年にシルクロード踏査 隊長として4箇月の旅に出た。

 71年3月21日、山梨県の茅ヶ岳を登山中、脳卒中で急死した。68歳だった。 加賀市大聖寺神明町の本光寺にある墓石には「読み、歩き、書いた」と刻まれている。

 ふかた きゅうや
■深田 久弥と 文学の歩み・・・・略歴〜久弥・山の文化館
1903(明治36) 石川県大聖寺町に生まれる
1916(大正5)  福井県立福井中学に入学
 福井の山に関する深田久弥の記述:

選ぶとしたら・・・・荒島岳か能郷白山か
日野山はかねてから私の目を付けていた山だった。
1918 初めての白山登山
1921 福井中学卒業
1922 第一高等学校に入学
1926 一高を卒業し、東大哲学科に入学
1927 第9次「新思潮」で創作活動
1930 「オロッコの娘」発表
1932 「あすなろう」発表
1933 「文学界」同人に
1935 日本山岳会に入会 「津軽の野づら」発表
1944 金沢で入隊
1947 大聖寺に移住
1951 金沢に転居
福井の群像 1955 東京都世田谷区に転居
1958 ヒマラヤ遠征
1959 「日本百名山」の連載開始
1960 庭に「九山山房」建てる
1964 「日本百名山」発刊
1966 シルクロード踏査隊長として4ヵ月の旅行
1968 日本山岳会副会長
1971 茅ケ岳登山中に、68歳で急死
1974 「深田久弥 山の文学全集」発刊。大聖寺に文学碑建立


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