『渡り鳥旅行』運動は1896年、ベルリンのステクリッ
ツ中学校教師のカ−ルフィッシャ−によって口火を切られ
後に広範囲な国際的な影響を持つに至った運動である。
これは発生年代を眺めてみるに19世紀後半よりの国際
的提携の呼ばれた国際主義の時代であって一方においては
国と国との対立はあったけれども資本主義の発展によって
各国の経済が世界的なつながりを持つ様になり国際関係が
緊密になった時代である。
都市の急速な発展は青少年の生活環境からこの大自然の
美しさや魅力を奪い去って行った。そのため彼等は自然の
美しさを求めて、あらゆる物質文明の交錯しあう都市を抜
け出て、簡素なしかも冒険的な旅に出掛けて行った。
町から村へ、村から町へ、そして大自然の中へと、自国
の産業や文化・歴史・民族などの見聞を広めて行った。
一時は2度に渡る世界戦争のために殺戮と破壊の中に、
没し去ったのであるが、永遠に忘れられはしなかった。
それはこの運動の底には祖国愛と国際主義と平和と自由
の精神が貫かれているからです。
平凡社『世界百科大事典』より
1908もつくられるにおよんで、運動は次第に普及していった。
しかし運動の普及にしたがって本来の野性味が薄れて、
次第に形式化があらわれ、ついには<旧渡鳥>Alt-Wander
vogel と<新渡鳥>Wandervogel e.V.との分裂(1905)、さ
らに、前者から<若き渡鳥>Jugend-Wander vogel が分裂
した。 1910 。
そのうえ第1次世界大戦の影響を受けて運動はいろいろ
な困難に当面し、やがてドイツ青年団 Deutsche Jugendsc
haftからヒトラ−・ユ−ゲントHitler-Jugend に統合され
るにおよんで、その青年運動としての自主性は全くなくな
ってしまった。
第2次世界大戦後は、本来の渡鳥運動の流れを汲むいく
つかの団体が復活した。 渡鳥運動は、ドイツ以外の各国
にも伝えられ、特にその派生と見られるユ−スホステル運
動は第2次世界大戦後日本においても盛んにおこなわれる
ようになった。
平凡社『世界百科大事典』
「ユ−スホステル」
【ユースホステル】 Youth hostel
<文化‐旅行>
略称はYH。健全な旅を通じて青少年の育成をはかろうというユース・ホステル運動の主旨に基づく、
青少年のための低廉な宿泊施設。19世紀末ドイツ青年の間で流行したワンダーフォーゲルの精神が
その底流で、1909年(ドイツのアルテナに開設されたのが最初)に始まった健全な旅を通じて
青少年の育成を図ろうという運動をきっかけに、清潔で低料金の施設として世界に広がった。
日本でも1951年に日本ユースホステル協会ができた。宿舎には男女別の寝室、洗面所、浴室などがあり、
夜にはペアレント(parent)と呼ばれる責任者を囲んでのミーティングが開かれる。
しかし消灯時間や飲酒制限などの規則正しい生活を敬遠する若者が増え、ペンションなどに押され、
利用者は減少気味。このため、個室部屋を設けて飲酒できるホテル並みのユースゲストハウスも開館した。
93年10月からは、全国375カ所(公営と民営合わせて)のユースホステルを施設の充実度に応じて
四段階にランク付けし、料金に差をつけた。
「ボ−イスカウト」
ボーイスカウト活動の始まり 〜 1907年8月初旬の8日間、20名の少年たちが英国のドーセット、
プール近郊のブラウンシー島で実験キャンプを行ったことから、この運動は始まった。
これを組織したロバート・ベーデン-パウエル卿 (Lord Robert Baden-Powell : B-P) は、
彼の考案した訓練と訓育方式が青少年にとって魅力的なものであり、かつ有効であることを確信した。
B-Pの意図は、ただ、この少年たちの訓練方法をボーイズ・ブリゲードやYMCAのような既存の
青少年団体で採用するように提供することにあった。驚いたことに、少年たちは自分たちで組織を
形成していき、これが、今日世界最大の自主参加による青少年活動となったのである。
創始者べーデン-パウエル(B-P)卿の経歴
ロバート・ベーデン-パウエル卿は、1857年2月22日に生まれた。
ブラウンシー島で実験キャンプを行ったのは、B-Pが50歳の時だった。B-Pは自分自身の少年時代および
軍人としての多くの経験から、独創的な訓練方法を作り上げたのであった。
少年時代のB-Pは、10人兄弟(うち男6人)の中で成長した。休暇はキャンプ、ハイキング、
ボート遊びに興じた。
B-Pは、テントの設営、地図とコンパスの使用法、まきを使っての炊事等野外生活に必要なさまざまな
技術を身につけた。学生生活を送った英国チャーターハウスの校舎付近では、立入禁止の森林があったが、
B-Pは明るい時間にこっそりと忍び込んで、足跡を残さない方法や、木の登り方や、学校の教師が森の
見回りに来た時、気付かれないよう身をひそめる方法等を学んだ。
1876年、B-Pは陸軍の士官としてインドにわたり、斥侯、地図作り、調査報告に専念した。
B-Pはすぐに頭角を表し、その成果を認められて、他の兵士を訓練する職務を任された。
B-Pの訓練方法は、当時にはまだ目新しい方法であった − それは、小単位、つまり班が
一人の指導者の下で作業を行い、成績のよい班を特別に表彰するものであった。
技能の向上著しい兵士たちには、B-Pは磁石の北位点をユリの花の形を合わせた図柄の記章を授与した。
今日の世界共通のスカウト章は、これを厚型としている。
ボーイスカウト運動としての成長
「スカウティング・フォア・ボーイズ」が爆発的に少年たちに広まったことから、ボーイスカウト活動は、
全く自動的に、非常に迅速にイギリス国内や海外にまで伸展していた。
そして、1908年にイギリスのロンドンに運営のための事務所が設立された。
こうしてボーイスカウト活動は全国的、国際的な運動としての第一歩を踏み出した。
1909年までに運動は、確固たる地盤を築いた。
「スカウティング・フォア・ボーイズ」は5か国語に翻訳されていた。
ロンドンでのスカウトたちの集会「スカウトラリー」には11,000名以上のスカウトが参集した。
南アフリカとチリは、B-Pが休暇を過ごすために訪れた結果、英国外でスカウティングが最初に開始
された国の一つとなった。1910年、B-Pはカナダと合衆国を訪問したが、
両国には既にスカウティングが開始されていた。
1914年の第一次世界大戦の勃発で、本連動は崩壊に向かうかのように思われた。しかし、
班制度を通じて行われてきた訓練が、その真価を発揮した。班長は、大人の指導者たちが戦場にある間は、
自分たちだけで活動を進めていた。しかも、スカウトたちは多岐にわたり、この非常事態に貢献した。
特筆すべき働きは、シースカウトたちであった。彼らは沿岸警備隊員が外洋での勤務を後顧の憂えなく
行えるよう国内の沿岸警備を助けた。
第1回世界ジャンボリーは、1920年に開催され、多くの国から若者たちが一堂に会た。
この国際的な大会により、共通の興味と理念とを分かちあえることを身をもって体験した。
このロンドンのオリンピアでの第1回世界ジャンボリー以降、開催地を様々に移して、これまで18回の
世界ジャンボリーが開催された。
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今、グリーンツーリズム・・・ 。。。。。。。。
◆グリーン・ツーリズム(green tourism)〔農林用語〕
都市住民が農山漁村において自然・文化・人々との交流を楽しむ滞在型の余暇活動。農水省は一九九三(平成五)年度から中山間地域、過疎地域の活性化をめざして、まず二五道府県にモデル地区を設定、農家へのホームステイ、公共ログハウスでの宿泊、オートキャンプなどさまざまな宿泊形態について調査するとともに、農山漁村の受け入れ体制の整備手法の検討、基準マニュアルの作成等のほか、環境破壊防止協定、景観条例などの作成を推進している。
都市の住民が農山村を訪れ、自然や生活文化に浸る新しい旅の1つで、1970年代からイギリス、ドイツ、フランスを中心に長期休暇が普及するに連れて広まりました。アグリツーリズム、ルーラルツーリズムなどとも呼ばれています。また、フランス・イギリス・ドイツでは、農家の農業以外の収入を得るための手段として定着しており、フランスにおいては年間200万人が利用、フランスの観光客宿泊の18%にものぼっています。
へのへのもへじでは日本型グリーンツーリズムを次のように考えています。
日本におけるグリーンツリーズムは、ヨーロッパ風の滞在型だけではなく、日帰りのアウトドアレジャーから市民農園まで幅広くグリーンツーリズムとして考えています。また、グリーンツーリズムの活動をタイプ別に分けると下のようになり、へのへのもへじでは下のような活動すべてをグリーンツーリズムと呼んでいます。
■農村におけるレクリエーション活動・施設のタイプ■
学習型→ 自然学習→自然生態観察フィールド・生態観察園、ビジターセンター、天文台等
歴史文化学習→郷土博物館、郷土文化館、農業文化館、農民芸術館等
探勝型→ 自然散策→散策・ハイキング・サイクリング・オリエンテーリング・森林浴等のコース等
歴史散策→名所旧跡を巡る歴史散策コース
鑑賞型 季節鑑賞→花見、蛍狩り、月見、紅葉、聴虫、雪見、等の四季の名所等
産物観覧→栽培展示温室、花・昆虫等の鑑賞温室、果樹・野草・薬草・ハーブ見本園、地場産業 展示施設等
収穫型 ○○狩り 観光農園(果樹・野菜・山菜・キノコ等)、オーナー農園・牧場(果樹・家畜等)、 釣場・釣堀等
収集型→ 植物採集→田の畦、里山、野原、河原等
昆虫採集→トンボ、蝶・カブト虫等が生息する里山、ため池、小川等
活動型→ ピクニック→河原・野原・里山・水辺・森等のフィールド、デイキャンプ場、ピクニック園地
林間フィールドアスレチック等、動物ふれあい、小動物ふれあい牧場、観光牧場乗馬場等
→ 食事・買物・食事施設、野外バーベキュー施設、農産物や特産品直売所、市等の催し広場等
親農型→ 野菜・果樹づくり→ 市民向けふれあい農園、高齢者向けのいきがい農園等
採農型→ 農作業参加→ 田植え・稲刈り、果実の摘花等の農作業を支援する援農農園
体験型→ 農文化体験→ 体験農園・農場・牧場、炭焼き窯、水車小屋等
民技文化体験→ 木・竹・藁細工、紙漉き、陶芸、染織、民芸品製作等体験施設
食文化体験→ ふるさと料理の体験施設、果実や畜産等の加工体験施設
生活型→ 宿泊体験→ 農家型体験宿泊施設、農家民宿、貸別荘、農園付別荘、
キャンプ場、オートキャンプ場
→ フ ァームステイ受け入れ農家・牧場等
●出典:(社)農村環境整備センター編「農村環境整備の科学」(朝倉書店発行)
●もっと知りたい方に●
●農村体験グリーンツーリズム〜http://www.pref.yamagata.jp/ns/green-t/nsgt0000.html
●グリーンツーリズム・フォーラム〜http://www.greentourism.gr.jp/frm/frm.html
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〔各種旅行施設〕
◆国民宿舎
地方自治体が、厚生年金の積立金から低利の融資をうけ、一九五六(昭和三一)年から全国の自然公園、
国民保養温泉地など自然環境に恵まれた地域に建設している宿泊施設。
第一号は五七年七月に開業した鳥取県大山山麓の「ぶな林」で、現在は北は北海道の丸瀬布温泉から、
南は沖縄の名護市まで二五八軒に及ぶ。
このほか、財団法人国立公園協会が公営の規準に従って指定する民営宿舎が一三六カ所ある。
◆国民休暇村
厚生省(現在環境庁)が一九六二(昭和三七)年以来全国の景勝地を選んで建設している、
国民の憩いの村。国立公園か国定公園にあり、宿舎は設備が整い、周囲にはスキー場、キャンプ場、
海水浴場などがある。岩手山麓、田沢湖高原、裏磐梯、那須高原など三五カ所にある。
◆ふるさと自然公園国民休養地
国立、国定公園内につくられる国民休暇村と同じ性格のもので、こちらは都道府県立公園やその他、
自然環境がよく保存され、かつ都市から比較的近いところにつくられる。
一九七○(昭和四五)年度から制度化され、環境庁が指定する。現在二一カ所あり、国民宿舎や
種々のレジャー施設が建設される。
◆国民年金保養施設
国民年金の加入者や受給者、およびその家族の健康増進や休養のために建てられた施設。
一九七二(昭和四七)年三月、鹿児島県垂水市に第一号が作られて以来、現在まで五五カ所に
設置されており、一般の人も利用できる。
◆簡易保険郵便年金保養センター(かんぽの宿)
郵便局の簡易生命保険および郵便年金の加入者の健康増進や保養のために建てられた宿泊施設。
一九六三(昭和三八)年一二月、神戸市に有馬簡易保険保養センターが建てられて以来、現在まで
八○カ所に設置されている。
◆青少年旅行村
健全な青少年旅行の推進と、過疎地域の振興という一石二鳥をねらい、運輸省が計画した施設。
全国に八○カ所開かれている。そのうち、天童高原、武尊、五箇山、皆月、和田峠、美杉、
上斎原恩原高原、羅漢山、由岐町、小佐々町などには宿舎もある。
◆大規模年金保養基地
年金福祉事業団が、勤労者・青少年の健康増進と、増大する余暇の有効利用を目的に全国的に設置を
進めている大規模保養施設。グリーンピアの名称で、兵庫県三木、新潟県津南など全国一三カ所で
営業している。いずれも三○○ヘクタール以上の敷地を有し、宿泊施設をはじめ、様々なスポーツ施設、
セミナーハウスなどを地域の特性に合わせて配している。
なお、政府は特殊法人等の整理合理化の一環として、グリーンピア業務から撤退することを一九九七
(平成七)年六月に閣議決定している。
◆家族旅行村
一九七八(昭和五三)年度から運輸省が進めているもので、既存の観光地を核にキャンプ場や
サイクリング道路、宿泊施設などを整備し、同時に過疎地域の振興をはかっている。
宿泊料金はほぼ民宿なみとなっている。八一年第一号としてオープンした安心院(大分)、
立山山麓(富山)をはじめ、現在、太平山仁別(秋田)、高湯(福島)、奥出雲(島根)など
四七カ所がある。
◆レクリエーションハイツいこいの村
勤労者の有効な余暇活用を目的に一九七三(昭和四八)年から労働省が計画、雇用促進事業団が建てる
施設で中小企業レクリエーションセンター、勤労総合福祉センター、勤労者いこいの村等の総称。
岩手県の岩手山麓、宮城県の栗駒山麓、兵庫県の播磨内陸丘陵地、長崎県の多良岳山麓など六六カ所が
指定されている。
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