FUWV部50年のあゆみ・部誌「渡り鳥」創刊号
FUWVOB:1998-12〜
福井大学ワンダーフォーゲル部OB会 福井の山と半島INDEXへ
    部誌「渡り鳥」創刊号は風化して茶色に変色し、現存する部数も僅かで手にとって見るには損傷する恐れもあり、今回縦書き文章を 読み取るOCRとスキャナーで復刻を試みHP化すことが出来ました。遠く離れたところにいる会員や現役の若い諸君に読んで(見て)頂くことが部創立50周年の事業の一環としても意義があると思います。なお昔々のことでその時代がどういうものであったかを理解して もらうために、コメントを追加しています。

 1) 自然の魅惑  初代顧問 故 成山 甚二郎先生

 春の花、間もなく訪れる新緑
 焼けつく様な真夏の湖畔や海浜
 総べてのものを一色に包んだ銀嶺

これら四季を通じての大自然に心を誘われない筈はない。ところが急速なテンポによる都市の発達に並行して我々の生活環境から、この大自然の美しさや、魅力を奪い去って行く衣、食、住の最少生活単位を一つのリユツクにゆだねて野や山を求めるハイキングやキヤンピング、登山に人をかりたてるのもこの止むに止まれぬ大自然へのあこがれである。
 大自然は常に清らかで、大らかであり、その前では人間が如何にもちっぽけで醜いものであるかが感ぜられる。そのふん囲気は我々の一切の利己心を捨てさせ人の心を清らかにして呉れる。そこに集る人達はお互いに温いいたわりをもって来る。雑踏と騒音と塵埃に充ち私利私欲で葛藤する環境に埋れれている人間の姿が哀れにさえ感ぜられる。この神秘さが、矢もたてもたまらない位私を野外に誘い出しているように思われる。野外活動の効能書を並べれば、いくらもあると思うが、 言わばそれ等は人間がそれぞれの立場で勝手につけたものではないだろうか。私はそれか今ここで羅列して見ようとは思わない。
       部誌「渡り鳥」創刊号の巻頭言より S32(1966)年発行

 南極に昭和基地建設。岸内閣誕生。ダークダックス誕生。東海村に原子の火。 国産ロケットカッパC型成功。「喜びも悲しみも幾年月」、「戦場にかける橋」、「有楽町で会いましょう」 の時代でした。
渡り鳥創刊号
渡り鳥創刊号 S32 (1957)発行

FUWV部50年の歩み沿革  【お願い】成山先生についての思い出があればメール願います。

 2) 敦賀半島  田埜 正 (元部員)   非公開[アルバム]つきHP見たい方メール下さい。

 出発の時には、御見送り有難う。曇り空に、ともすると遅れ勝ちな僕を一番のバス に乗せてくれた君に威謝せずには・・・・
 御蔭で今は騒々しい街から離れて澄んだ空気の一杯ある海と山とにはさまれた自然 の雄大な胸に抱かれて自由なのひのびした生活に喜び浸っております。野外生活の楽 しさが初めて味えた様です。
 では御約束通り今一度福井から出発します。  今にも降りだしそうな雲に包まれた福井を抜けだしたのは八時近くだったでしよう。 あまり面識のなかった人達と井に座を取ったものの携帯品装備品の話し以外には一切 おしゃべりしない紳士淑女達同座ですから、まるで一人旅の様に移りゆく窓の景色に 目を移すより仕方ありませんでしたよ。
 その為に駅名はだいぶ憶えられた様です。 杉津に近ずくと、青々した日本海が姿をあらわし、その青い海原に突き出ている。我 々の目的地敦賀半島が雄姿をあらわし、高標三〇〇近くの所から見たその景色は、と うていペンにて表現できませんね。
 十時頃敦賀駅下車後二分位あるいて、北陸で有名な気比神宮に到着、小休憩の ち、食輸補充の為ベテラン連か買出しに出た後、この神宮は航海安全の神様との事で、 もし舟に乗りました時は全員の安全を御守り下さいます様大きな社殿の焼失(戦災) 後に建てられた神殿に向つて、大礼して御願いしましたよ。
敦賀常宮  準備完了との事で新しい食料リツクを手に神宮を後にしたのは腹時計で確か十二時 近くでしたね。駅前通りとは少々町らしき中をリツクを背にバスに乗るとか乗らない とか言いながらヽどうにか松原公園まで数十分を要して着きました。 すばらしい老松で繁ったこの公園は、初めての訪問ですが設備の完備した感じのよい 公園ですよ。人もかなり出て居だ様ですね。
ここで昼食の後夏の大会をめさして焼けっくような太陽にも敗けない で練習に励んでいる敦賀高校野球部らしきグラソドの横を抜けて、第一キャンプ地に 向ったのは予定よりもずいぶん遅れな時刻でした。
 美しい老松群と寄せてぱ返えす波に今日まで洗い清められた様な真白い砂を数きっ めて構成している綺麗な松原公園に再びいつの日か訪れる事か約して常宮への道に進 んだのです。白亜海岸を思わせる様な白い海岸線に平行して附近に展開する美しい景 色を楽しみながら進んだのですか、一粁、二粁と前進するにっれ、リツクの重みが段 段肩に食入る様になり、首が重く、休憩回数が増えてきましたね。
こうなるとヽ景色どころではありません。とにかく早く常営につかなければと気ばか りあせりが出て・・・・燈の近かけれど道達し・・・・海岸線ですから、近くに見え るのですが、道が曲りくねっている為、中々遠いのですから大変でしたよ。
 テント食料等背負った人には本当に感謝せずにはおられませんでしたね。風邪熱の とれた後たった僕は何度倒れそうになったか知れませんね。これもやがては楽しい思 い出の一つとなる事でしょう。
 待望の常営に到着したのは、陽もだいぶ傾いた頃でした。大休憩の後明日は祭礼と 言うので奇敏に掃き清められた 敦賀常宮 常営神社外境の一隅にキャンプ設営、この時初めてテ ントの張り方を習って、すぐ実習ですから良く憶えられる。実に楽しい仕事でしたね。  次は炊事だ。神社のすぐわきの所にある小さな滝の上流の清流に於いての炊事も又 楽しいが、一等困ったのは飯ご5たきでしたょ。この世に生を受けて以来この様な経 験の無い僕には、自然他の人に頼んで助手を務めるより仕方がないので、薪ひろいだ が、これも奇麗にされている境内では松葉一つもひろえないで苦労したのですよ。
 その間他の人は海に入っていたそうですが、いくら夏でも陽が落ちてからでは寒い ですよ。海から上かつて口を青くしていた人も居たっけ。とにかく元気のある人達で すよ。
 長時間を要した料埋か出来上ったのは、もうあたりが暗くなり、うちよせる波の中 に夜光虫が見いだせる頃でした。家庭では決して見る事のできない珍料理も腹のすい ているせいと、変った環憶の中にいるせいでしよう。とてもおいしく頂けましたね。  教科書を片手に調合するのですから正確無比、おいしく頂くなかった人はどうか しているのだと言わなければなりません。
食後はいきおいよく燃える火をかこんで歌ったり話したりの楽しい集い。永く忘れる 事のない集いの一つ、その時は途中で雨がボツリボツリ降り、美しい空を雲が意地悪 く包んでいたので、せっかく張ったテントの中では眠れないで海に臨んだ常常神社の 拝殿で夜を過ごす事になり、今毛布を持ち込んだ所です。
滝の流れる音と、近くの波の打ちよせる音が子守歌の様にしずかな夜の中を伝って来ます。 では・・・
   常営拝殿にて。。。。。  部誌「渡り鳥」創刊号S32(1957)より

当時は・・・・
1)北陸トンネルはなく今庄からはスイッチバックしながら杉津までトンネルに入ったり出たりの鉄道の旅。トンネルの合間から眼下に敦賀湾が見えるようになると杉津駅です。ここで皆が小休止。ここには見飽きることのない素晴らしい景色があった。 これこそスローライフではない? 本当のスローライフて何?
2)常宮までは車道があったがそこから先は半島先端の浦底まで山道であった。敦賀市街からは船の便があった。
3)薪集めは炊飯のため避けられない仕事で、灯油や、プロパン燃料は野外用の器具がなく携行出来なかった。焚き火に制約はなかったが。
4)食料調達、当時はスーパーとかコンビにはなく、野菜、肉、調味料などそれぞれの店で調達した。レトルトやインスタントものは当然なく、カレーを作るのも素材からの調理が必要でいわゆるレシピー便りに計量しながらの調理でした。


 3) 松原海岸 故・西木町子(元OB会員)     非公開[アルバム]つきHP見たい方メール下さい。

   七月二十四日  水曜日  快晴 (第4日目)
遠くの波の音が静かに、うつらうつらしている耳にきこえて来る。今日は良いお 天気らしい。
 皆、まだ起き出さないらしいな。ちよつと波打ぎわまでと思ってテソトをぬけ出す。 朝の海岸の空気は生まれたばかりの様なすがすがしく新鮮だ。波はそれでも申訳ばか りの白布を拡けてばよせ返している。遠くの山々はまた朝もやにつつまれて薄いベー ルでも、通して見ている様に、ぼんやりしている。何んて平和な風景なのだろう。 どんなペシミストもニヒリストもこの様な挑戦状を拡けられては、微笑んでうなづか ざるを得ないだろう。
松原
〜敦賀半島縦走WV〜
松原海岸にて〜 1957(昭32)

 こそこそと又テソトの中にもぐり込む。少しねむつたらしい。出て見ると、もう大 分太陽が上っている。御天気も良いし、皆の顔は明るい。炊事も皆自然に動き出すと 言う様な形で出来上る。大分慣れたぱずなのに、又少しこげた。でも誰も本気になっ て不平を言う人もない。又実際においしいのたから言う必要もない。なごやかに笑い ながらすます。食事を共にすると言う事は、同じ釜の飯を食った仲たと言う言葉もあ る様に、又社交用として食事が利用される様に相互の親密さを急激に増すものらしい。
 浜も大分にぎやかになって来た。今日は海の記念日だ。食器洗に行くと小学生が集 って来て「ごはんはハンゴで炊くの?」「キャンプファイヤーしたの?」と熱心に関いて います。
 皆で散歩、展望台に登って見る。小女二人と小父さんが写生していた。松原海水浴場全 体、市全体も見渡せる。花崗岩の白い道、砂浜、平行に深緑の松原、そのうしろに、小さ な屋根、空、雲、海、色彩、理論なんかで及ひもっかない様な美しい調和をなして居る。 もともと色彩学なんての一人前の顔しているが、ぞれは自然から色に関するものだけを 取出して、少しばかり体系化し整理したものにすきないのであるから、当然の事であるが カメラマン達はこれらの美しい景色を小さい機械の中に押しこもうと一生懸命だ。
 暑くなって来たので浜に帰る。珍らしく天気は良い。日頃のカツパ振りを発揮して飛び 込みたくなったが、疲れるのと後始末がいやなので三人残った。波は案外静かなのでボー トに乗る。漕ぐのは初めてと言うわけでもないのであるが、まるで蛇の進むようにくねく ねと曲ってばかし、なかなか目的地に着かない。競争しても負けてしまう。もう少し慣れ ると良いのであるが、その前に手が痛くなってしまった。岸ぞいに探求でもする様な気持 で船を進ます。時には、上陸(?)等をして。何しろ上手であるから、岩の間等通る時乗 っている人ばびくびく、となりの舟に助けてもらって、どうにか続ける。
舟をかえして最後 の食事の用意。今まであまり自分で作ったりしなかったら、はじめはどうして良いかわか らなかったが、今では、少しは慣れてきた。力のない者には、荷物の運搬は出来ないから、 こんなことでも練習しておくべきだなと自分の役目を悟ったらしい。急いで後かたづけし て、バス乗場に行ったが、丁度行ってしまった後、次のバスで行くと丁度駅についた時汽 車は動き出していた。予定より一汽車遅れて帰る。車中では皆疲れた様子だった。
 でも反省や次の計画等の話しで、行く時よりもずっと柔いふん意気になっていた。

 上記2編はFUWV部の最初の本格的合宿となった時のもので、当時のWV活動の様子が垣間見えます。 まったくの手探り・当時の交通・食料調達・食事・燃料など具体的に書いてないが行間に思い出されます。

敦賀半島FUWV部50年の歩み沿革


 4) 大仏寺山跋渉  横山昌弘(機)

 こぶしの白い花と共に大仏寺の情景がばつと眼前に開けた。祖跡コース、それ は永平寺と吉峰寺とを、大仏寺山の尾根を経て結ぶ山路である。道元禅師のその 昔から古人が踏み残したこの山路に若人の歌声がこだまし、彼等の健康な足並が その上を踏みつける。そして青春も・・・・
加越国境の重々しい山並の上に一際白くその雄姿を俘び出しているのは白山連峰 である。後を向くと南越の山々の、その柔かい、滑らかな陵線が、五月の空の下 に展開している。
登り口の吉峰寺はかなり高い山腹にこじんまりと建っている。    ときどき、かけいの水が「ジャー」とあかつて「ボン」という音が澄んだ庭園 にひ響きわたる。
それは太い竹の筒に水が溜ると自然に倒れ水が流れ出て元の位置に戻るとき、筒の底 が岩にあたる装置(しかけ)になっている。又ときどき人気に驚いてカエルが飛び込み その波紋が水面に映る薄緑のもみじの葉の影を深く揺すっている。
 さすがは初夏の太陽の下、尾根道は暑い位いだ。うるさく飛び始っていた大きいあ ぶも、どこかへ行ってしまった。眼下には九頭竜川が、側面には浄法寺山の連山がせ まっている。
こぶしの花が青い空にぼっかり浮んで咲いている。この山路から少しばかり降りた ところに大きいこもり岩というのがある。 水が流れ出ているやや開いたロでさえ身をかがめて入らなければならない。  天井の低い、つま先上がりの薄暗い岩屋で何か由緒がありそうであるが、暑い山路を歩 いた後には、もつてこいの憩いの場である。 さつきから唄っていた「静かな湖畔の森の・・・・」という歌をその中でがんがんひびか せている。
 登り下りの尾根をつたって昼下りにもなると、やっと大仏寺山三角点に出る。視野もぐ んと大きくなり、福井平野を眼下に見下す。
少し降って大仏寺跡の附近に来ると、食用カエルか、がまカエルか知らないが、地ひぴき の様な音があちこちで聞える。  谷川にそうて急坂を下ると、三宝の滝(仏・法・僧)に出る。ここから永平寺門前まで 一気にやって来る。  陽もかたむきかけたが、春の空は青く澄みきつている。 明日も天気だろう.
  ×××××××XX 部誌「渡り鳥」創刊号S32(1957)より

大仏寺山FUWV部50年の歩み沿革


 5) 戸隠妙高キャンプ旅行 窪田祐二(建)(元部員)

 八月具日我々に一時俗界から遊離するためにキャンプに出発した。予定コースは
野尻湖 →戸隠牧場→笹ケ峰牧場→池の平である。午前二時福井駅を出発汽車は満員、通路 で新聞紙を布団にリュック枕に横になる案外寝心地はいいもんだ。直江津で乗換又満員列 車である。約一時間田口駅に着く。田口より野尻湖まで予定通り徒歩ということになる。
牧場  約三十分歩くと、雨が降り始める。リュックはかついでいるし、全く雨にはかなわない。 雨具は完全でない自分を犠牲にリュックを雨から防ぐためにナイロンのふろしきをかけて 歩く用意のいいのは傘をもって来ている。それでもリュックの重さには変らないますます 重い。しかも歩けど歩けど湖は見えないもうとっくに予定の時間ぱ過ぎているのに・・・・
 ようやく湖のキャソブ予定地に着いたまだ雨はやまない。しかたがないなるべく乾いて いる所にテントの設置、仮の宿三つはまたたく間に出来上る。すぐ夕食の用意、今日の献 立はカレーライスである。どんなもんでも腹がへっていればうまいもんだが、それにして も今日の飯の炊き方はますい。雨が降っているので、視界は全くきかない。明日早朝出発 だから野尻湖の良さは分らないことになる。やむをえん運が悪いんだ。
 翌早朝今度はバスで戸隠へのコースをたどる。まず長野市に出るリンゴ屋が一杯ある。 昼飯代百円ずつをりーダーから受け取り一まず解散。ぼくと一緒に行動した電気のK君実 に見事な胃の持主である。名物のそばを二杯リンゴを半ダース以上ペロリまだ食いたそう であった。体の大きいのもやむをえない。予定の米で足りるか今から心配だ。
雨は小降り になったが、まだやまない。長野から戸隠牧場までバスで約二時間 すごいバスである。 武生→敦賀のバスに乗ればこの感じは実に良くなる。道は悪くバスも悪い。「田舎のバ スはおんほろ車」とまでいかないが・・・  牧場に着く雨はますます強い。豪雨となっ ている。これではテントが脹れない。今晩は雨ざらしかなさけない。
代表が良策を探しに 出る。数分して代表者が帰ってくる。すくいの神が現れた実についている中央大字のテント が空いているぞうだ。彼等に今日の雨で明日来るそうだ。今晩はそこに避難する。テ ントのでかいこと五十人用だそうだが、ちようど蒙古のパオを想像していただけぱびった りだ。十人位入ってもがらがらである。なんとか雨ざらしにならずにすんだ有難いことに。 すぐ夕食にする。今晩もメツコだ。食はすんでも外には出れない音痴の合唱が始まる。音痴 でも楽しいもんだ。しばらくしておやつの おしる粉ができる相当甘いはずなんだが、甘 党の建築N君砂糖をじゃんじゃん足して食べている。あきれたもんだ。それからはおきま りの雑談のうちにみんなねてしまったが、雨はまだやまないらしい。
ボート  翌朝雨は上っている。朝食今日の飯も炊き方は良くない。朝食後直ちにテント準備引越 をする。予定でぱ笹ケ峰にいくのだが、もう一日止まることにする。昨晩は分らなかった が、案外大きくキャンプしている約五十人かもっと大いかもしれん。今晩キャンプフアイ ヤーをする予定というので、午後は雨上りの白樺林をたき木を探しに出かける。牧場を見 る。実に美しい ここの牛は大きくスマートである。福井で見る二倍位はありそうだ。全 くすごい。やはり晴れなければキャンプはおもしろくない。景色も断然良い。夕食今晩は 旨くたけているというあたりまえだ。今日から炊事係はこのぼくだからね。夕食後キャン プファイヤーに係る人間の燃料はトリスー本近隣のテントから大勢参加してくる中には、 それば美人も・・・。歌をうたいまくって解散する。残り火で明日の飯をたきながら 明日の行動予定を討議する。一日予定が狂ったので討議せねばならない。「帰る組」「止 る組」「前進組」の三つが出て対立するが、止ることになる。
 翌日起きてみると晴れている。ようやく天候も回復したらしい。今日一日キャンプ場で ひる寝でもするか。H君とF君とY君とT君は戸隠山へ登ると いって早く出かけた。残りの組は牧場の芝の上で横になる。近所 のテントは中学生の団体で帰るらしい。野菜をたくさん置いてい ってくれる。リュックの中で一番重いのは野菜たが、我々の野菜 リュックは中味のほとんどがジャガイモである。だから、なすや キュウリ等をもらえばうれしくなる。
 ウイスキーを.買った山小屋の子供が遊びに来るゆかいな奴だ。 我々も一躍「おじさん」に格上である。今晩もキャンプファイヤ をするという。戸隠山登山組帰着楽しかったらしい。繊維のS君 は危険な所で女性の手を特ってやったと嬉しそうなこと・・・・  夜キャンプファイヤーをする今日の燃料ぱ日本酒一升人も大勢 集まるもちろん女性も。ファイヤー後明日の飯をたき、予定を討議  「帰る相」「野尻湖へ逆流する組」とに分裂することになる。
その後隣のテントの女性グループとテイーパーテイとしやれる。  (わざわざ女性グループの隣にテントを張ったわけではない。)  しかし翌朝は早く出発せねばならない残念だが・・・・   「帰福組」がまず出発我々も野尻湖へ、今日は晴れている野尻 湖は美しいだろう。野尻湖へ着くと美しいのば美しいが、ここは 観光地だ原始林どころか、マンボ、アロハ、・・・・全くこれで は福井より都会だね。
 テントを張って用意の水着に着換えてボートに乗る。水泳をや りながら約一時間湖を半周する。野尻湖も奥の方は素晴らしいが 入口の方にすこし派手すぎる。我々は全く都会に出てきた熊みた いだ。(その方がぴったりするがね)泳ぎ疲れてボートを降り夕 食の用意、肉汁をするとのことでジャガイモをむいていると女学 生が手伝ってくれる。新潟の高校生だという。お礼こ夜おしる粉 をごちそうする。(女性には親切ですよね)今晩もキャンプファ イヤーをやるという三晩連続ではちょいとグロツキーだか最後の あがきたった。ホタルの光を最後にファイヤーを終る。
これでキ ャンプもおしまいだ。例の如く残り火で明日の販をたく明日は帰 りの汽車の中だ。今日は晴天だったので、野尻湖は実に美しかっ たし、妙高山はニ千米の雄姿を見せてくれた。
 これが最初の日なら予定通り進んだのだが。その点は残念だが まあ五日間案外楽しく暮したもんだ。  それも全く終わった明日は全てとおおかれた。  女学生とも・・・・

部誌「渡り鳥」創刊号S32(1957)FUWV部50年の歩み沿革


 6) 綜合的クラブ活動を目指す  横山 昌弘
ピラミッド
 簡素で健全なる野外旅行! 広い見聞と良識ある世界市民!
人類普遍の幸福と福祉のために奉仕するたくましい若人の集い!
 これらが我がワソダーフオーゲル部の。バックボーンであります。 大自然の下に展開されるこの運動の中にこそ、若人の生命の躍動 と友情の交りの場があるのです。
 野外旅行活動を通じて見聞を広め、又友情の交りの中に人格が 涵養され、そしてこのWV連動を通じて平和と博愛の精神を知 るのであります。核兵器、ミサイル等という危い火遊びに世界中 が巻き込まれそうになっている今日、良識ある世界市民によって 平和と博愛をもとにするこの種の運動が支えられ、根気よく展開 されていることに我々一同感服すると共に、心強い励ましを与え てくれます。
 そうです、友情とか平和とか言うものぱ温室の中でそっと育て られるべきものでぱないのです。世界の歴史が語る如く、この精 神ぱ若人の潔白さの中から生れているのです。それらは偶然に突 発したのでぱなく、逆境の中に踏みつぷされ、へし折られながら 長い間くすぶり続けてきたのです。それぱ真面目な青年なら誰 れでも考え、夢に見たことがなされただけのことであります。
小鳥と唄い、谷川のせせらぎで炊飯をし、大目然と営みを共に する我ら若人の間に通うものぱ善意と友情のみであります。ある 者ぱ馬鈴薯の皮をむき、米を洗い、ある者は薪を集め、そのう ちに炊飯の紫煙が朝もやの山に立ちこめ、太陽の光線が木の間か ら幾条にもさしこむ風景を見て誰れか微笑まないものがあろうか。
 今日の文化ぱ余暇の副産物であるといっても過言でぱたいだろ う。この余暇の最大限の利用こそが我々の人間としての成長のみ ならず生活空間の拡大を促すのであります。
 余暇というものを軽視することぱ、人間の人間としての成長が 無視されることであります。ここで総合的クラブ活動を取上げだ のは、この余暇の利用と良識と人格の函養とを目指したいからで あります。私は野外に於いてだけが友情の交りとか人格の形成の 場であるとぱ思っておりません。日常の一寸とした余暇に、社会 各界の知名人を囲んで話し合ったり、社会のいろんな事象を討論 しあうことも、この青年時代にのみ可能なことでぱないだろうか。
 ここにWV部は野外活動だけでなく、もっと大きな視野に立つ 本格的クラブとして登場すべきでぱなかろうか。私ぱこの様な大 きい構想のもとに、このWV部を運動文化の両面に宣る総合的 クラブとして推進して行きたい。我々ぱこのワンダーフオーゲルとい う言責が一連の青少年野外旅行活動の代名詞となる日を夢見てむ進もう。   。。。。。  部誌「渡り鳥」創刊号S32(1957)より

WVとはFUWV部50年の歩み沿革


 創刊号目次
友情の営火・・・・見開きで掲載
自然の魅惑・・顧問 成山甚二郎
総合的クラブ活動を目指す・・横山
    ☆
武周ケ池・・・・笹木洋佑
大仏寺山跋渉・・・・横山昌弘
敦賀半島W・・・・田埜正・西木町子
    ☆
ワンゲル・エピソード・・・・・・・・
白山登山記・・・・竹内鉄治
キヤソプ旅行・・・・窪田祐二
雨の野尻湖・・・・仏木嘉昭
 「眼」・・・・H ・N(建)
みやげ話あれこれ・・・・M・Y(機)
「比叡山所感・・・・斉藤隆治
 かきの実・・・・白沢英樹
 山に向いて・・・・藤井康正
九頭竜峡谷
 石徹白ヮソデリソグ・・・・吉田孝紀
西方ケ岳・・・・前川征一
戸隠山の讃歌・・・・仏木嘉昭
友 情 の 営 火

我々は新しい営火を焚こうとしている 平和と友情の営火を
我々の営火は闇を照らし  若人の血を沸き立たせるだろう。
我々ぼ新しい歌を唄お5としている 博愛と友情の歌を
我々の歌声は野山にこだまし 若人の心を躍動させるだろう。
我々は友情の交りを自然の営みの中に求めようとしている。
 この大自然の中にこそ我々を支配Lているあまりにも人為的な考えが
 はぎとられ無限の人間性が泉の如く溢れ出てくるだろう.

我々は簡素な旅行をして未知の地を訪ね各地の見聞を広めようとしている。
 あるときは簡素な宿に泊をし、あるときはテントを張って大地と営みを共にするだろう.
 突然暗黒の雲が現われ、前途が暗闇になっても挫屈しないような友情の要塞を築こう。
我々の前に道はない。しかし我々の後ろには道ができる。
山を越え野を横切って、我々の後ろに同胞の群れが追ってくる。
我々は後に続く同胞のために、そして来る日のために、この険しい道を切り開こう。


  かきの葉  白沢 英樹(学芸)

秋は この山深い村に
昔 語ってくれた メルヘンを
あたかも 少女の含み笑いのように
そっと まき散らしていく
それは すすけて あかくなった
百姓家の障子に似て
大層 わびしいものであっだけれども
そんな秋ぱ 谷に抱かれた村に住んでいる
少年に美しい夢を育ませる
空行く雲には 見知らぬ遠国の匂
祭の夜の アセチレンの輝きは
遠い ギリシャの神々の さざめき
山に落ちている 栗の実に
あゝ あのひとの ふくよかな おもかげが・・・
美しい メルヘンのー綴りが
いつか読み終えられると
燃えつきたろうそくに
新しく 火がつけられるように
いまひとつの 一綴りが
こんどは 烈しい音をたてながら
めくられていく
   谷には 冬が 訪れる。

かきの葉
 いやいや、創刊号にはこのような詩歌が何篇か掲載されています。 文筆の立つ連中が居たことはWV部が体育系か文化系か怪しくなりますが。 しかし自然を歎美し、自然に畏敬の念を持っていた証拠にもなります。 そういう混沌としたところから今日のFUWV部が芽生えてきた土壌(ルーツ)を再認識しています。
   野尻湖の雨  仏木嘉昭(機)(元部員)

 タ暮は雨に濡れて炊飯の紫煙も低く流れ れている。木の間にいぶされた銀(しろか ね)の鏡が垣間見え、映えりし対岸の赤き 瓦は旅の感傷をおぼえさせる。雨の湖水に ボートを出す弁天島の緑の影は、暖たかい 感じを水に与えている。

 みずのもに あめふりて
   わとなりて ひろがりきえぬ
 ますみなる みずあわく
   みずくさの すがたうかべぬ
 ひとくきの みずくさか
   みずにゆれ なみにもまる
 みずくさよ きみたれぞ
   たわやけき おとめのすがた
 ほほえみし なのすがた
   みずにゆれ ふねのゆくらん
 かえりみて いまはただ
   そのすがた むねにとどめん
 ふねのゆく のじりこに
   ふなあとは ひろがりきえぬ

 若い心の一筋に求めるものそれはすべて 涙となろのであろう。旅は自然に我々をいざなってくれる。
この崇高な美を知つてこそ、その人生のうれいに慰めを得ることが できるのだろう。自然はその疎遠さの中に 人間の行為の全てを無為にする知られない 力を持っている。それの与える疎遠な感じ は自然に親しみなじむ者のみに柔らかく変った姿を見せてくれる。
 古人の旅を愛した気持ちを直接我々に理解させてくれる。
野尻湖の夜は樅のこずえに雨音を聞かせてバンガローの歌声も重たく 聞えている。並んだ隣りのテントの中に電 池の丸い光が勣いて仮ねのしたくにかかっ たようである。
 長い旅の疲れは友にはやねむりを与え軽 いねいきが静けさをさそう。

 信濃なる野尻湖暮れて雨ふりぬ
テントの白し樅の木影に


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